山里にたたずむ、小さな小さな寺、宗安寺。「南無阿弥陀仏と唱えれば誰もが西方浄土に往生できる」と説かれた法然上人が開祖の浄土宗の寺院です。山号は源信上人『往生要集』の冒頭の一文「厭離穢土 欣求浄土」をもとに命名。開山は都留市谷村の西凉寺第二世旭誉門貞和尚(元和五年=1619年)です。本堂に座すと柔和な御顔の阿弥陀様が迎えてくれます。
甲斐国史によれば宗安寺の創建は「同村黒部某」と記されています。当寺のまわりには黒部姓の家が数多くあります。その黒部家の家門、武田菱によく似ています。ある郷土史家は「浅川の黒部家は武田家を守る一族ではなかったのか。」「八王子に落ち延びた武田信玄の娘、松姫の逃避行を助けたのは黒部一族ではないのか。」と推理しています。そうであるとすれば、諸説ある松姫逃避行ルートの中に、この浅川、扇山越えも新たな一つとして加わるかも知れません。
本堂に一対の灯籠があります。当寺に残る最も古い付物です。台座に文政9年(1826年)丙戌4月と記されています。施主は二人。安藤紋右衛門、鈴木与五兵の両氏です。灯籠の中央部に「間宮氏源信清」「間宮氏源信興」と刻字があります。施主二人と間宮氏との関係は不明です。施主の一人、安藤紋右衛門は過去帳を見るに駒宮在の人であったと思われます。間宮氏の発祥の地は伊豆国田方郡間宮村。南北朝時代です。その後、間宮氏は相模・武蔵に移ったとされますが、その間の歴代の事跡に関しては不詳です。
境内に首を落とされた六地蔵があります。明治政府の神道国教化政策に基づいて起こった仏教の排斥運動《仏教を廃し釈迦の教えを棄却する意》によるものです。明治元年(1868)神仏分離令発布とともに、仏堂・仏像・仏具・経巻などに対する破壊が各地で行われました。その歴史を伝えるひとつです。この六地蔵、建立は嘉永元年(1848)です。それからわずか20年後のことでした。
寺の境内に「太平洋戦争 供養碑」と大書された碑があります。その豪筆、先住の春常和尚が師事した椎尾弁匡上人(増上寺法主)によるものです。正面下段には戦没者の名が刻まれています。その多くは青年兵士であり、南洋諸島や中国奥地など辺境の地で亡くなられています。それも敗戦の間際です。戦争とは何かを物語る碑となっています。
〒409-0621
山梨県大月市七保町浅川1006
TEL.0554-24-7329
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住職 酒井還成
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